飛鳥の会             

飛鳥だより 第1号〜第26号

飛鳥だより 第27号〜 


みなさんからの体験談を募集しております。

内容は体験談にこだわりません。自分自身のこと、思っていること、みなさんに伝えたいこと等、どのような内容でも結構です。散文、詩、短歌、川柳等、形式も自由です。


体験談は、当会の連絡先にお送りください。当会のスタッフに直接お渡しいただいても結構です。

体験談 No.1


Dr.Toshさんへ (平25. 3. 1  匿名さん 投稿)
  Dr.Toshさんがいないとさびしくなりますね!!!
  Dr.Toshさん
  良かったら次のことについては忘れないでください。
  でも仕事中は忘れてください(笑)
  
  1.たまに飛鳥で出会った、わたしたちのことも思い出してください。
  2.素晴らしいホスピス通信もできれば、どなたかに引継ぎ・・・出来ませんか?
  3・たまに飛鳥の会のイベント等にも参加してください。

  以上ですが、仕事優先ですのでその場合はすべて忘れてください(笑)
  Dr.Toshさんの仕事ぶりは、わたしたちにも充分伝わってます。
  新天地でのご活躍を祈ってます。
  わたしたちのひとりより


看取りのその後・・・ (平25. 2. 7  匿名さん 投稿)
  私は3年前に、緩和ケアホーム飛鳥でパートナーを看取りました。
  本当は入院時の体験談を書くのが筋ですが、ここではあえてその後について書かせていただきます。
  これから書くのは、あくまでも私の状況ですのでご了承ください。

1年目
  呆然自失の状況でした。
  次から次へと発生する、対処ごとに追われて日々が過ぎていく状況です。
  ただ感覚(感情と言うべきか)が麻痺しているので、寂しさ・悲しさ・苦しさも当初は出てこなかったように思います。
  四十九日が終わってから、SKK(寂しさ・悲しさ・苦しさの略??)が一気に来たように思います。
  私の場合は、特に夕日を見るのが大変つらかったです。
  もうそれからは、坂をころげ落ちるような感じで常にしんどい状況でした。
  そうなると、何もかもうまくいかない・・・。
  人前では笑顔でも、内面は泣いてました。

2年目
  SKKは相変わらず、継続してます。
  SKKな状況でも、仕事をしないといけない、しんどい状況もかわらず。
  ただ一周忌が終わってから、感情にリトルですが動きがあったように思います。
  そろそろ自分のことに目が向きかけてくる時期でした。
  感情もジェットコースタのようにアップダウンを繰り返して落ち着けない状況でした。

3年目
  SKKも少しは落ち着く時期です。
  ただ今度はいままでの自分を取り戻すのに必死になりすぎて、しんどくなることです。
  でもしかたないと思います。
  それだけSKKな経験をしてきたんだから。

現在
  日常的なSKKや突発なSKKも多少ありますが、そろそろ自分なりの生活を取り戻す時期に差しかかっているのではと思います。
  最近思うことは緩和ケアのことを友達とか知人にお話をしても、結局は他人事です。
  痛感してます。
  最近は話をしてもわかってもらえないので、相手から要望が無い限りしないようにしてます(有益な情報なんですけどね、まぁいいか)。
  やはり人は経験しないと共有してもらえないのですね。
  そう考えると、飛鳥の会のような会は必要だと思います。
  SKKな状況下で唯一コミュニケーションが取れるところなのですから。
  奈良県もリレー・フォー・ライフ的なイベントが出来れば良いと思います。
  開催するだけですこしでも希望をもてる(いろいろな想いがありますね)方が増えます。
  素晴らしいことですね!


飛鳥での思い出 (平25. 2. 4  K. K さん 投稿)
  今年で、母が亡くなって6年目になり、時間が経つのは、本当に早いものだとつくづく思います。
  4年の闘病生活で、飛鳥では4ヶ月間お世話になりました。 飛鳥で最期を迎えさせたいと思ったのは、母がもう治療法がないと医師から言われ、打ちひしがれて生きる希望を失っていたときに、母とした約束を叶えるためホスピスを選びました。 その約束が、「うち孫とひ孫を必ず見せてあげる。」こと「痛い思いをしないで、最期を迎えさせる」ことでした。 この2つの約束を守れたのは、飛鳥にお世話になったおかげだと思っています。 私自身あまり親孝行をして来なかったので、少しだけですが、私なりの親孝行ができたかなと今は思っています。
  入院をした時は、1週間ぐらいと言われ、でもなんとか「うち孫とひ孫」を見るためにと強い思いで復活をし、しっかり見届けて、2か月後に安らかに亡くなりました。
  飛鳥では、毎日仕事を終え娘を迎えに行き、一緒に晩御飯を食べました。 父が、付添で泊るようになってからは、4人で食事を取るようになり、母の食べたい物を探しては、「美味しい。」と言ってくれることで、自分自身ささやかですが、喜びを感じていました。 いつも帰りに、何が食べたいかを聞いて帰っては、出来るだけ次の日に食べれるように準備をして、持って行っていました。 よくしたのが、「鍋」父も好きだったせいか、よく鍋料理をしました。 簡単で具材や味を変えれば色々な鍋料理になり、次の日は雑炊にして食べられたので、重宝しました。 だんだん食べられなくなってきてからは、やわらい物で甘い物ということで、色々なプリンを毎日買って持って行っていました。 今だにプリンを食べるとよく買って行っては、一緒に食べたなぁと思いながら食べています。 なんだか食べ物の思い出が多いなぁと思いますが、食べられることで、母の命の時間を確かめていたのかもしれません。 それと美味しい物を食べているときの母の顔が少し元気になるんですね。 その顔を見ると1日でも長く生きていてほしいと本当に思いました。 甘い物が大好きだったから、本当はもっと美味しい物を食べさせてあげたかったし、一緒に食べ歩きなどをしたかったなぁと町で同じぐらいの母娘さんを見かけるとふと思ってしまします。 なので、よく美味し物を見つけると1つ多く買って、母の写真にお供えをして、その後は私が美味しく頂いています。


うれしいお便り (平24. 4. 9  M. M さん 投稿)
  昨年の震災に楽器が流されてクラブ活動ができない学校に送る楽器を、近大の学生さんがあつめていること新聞で知り、
  主人の遺品のトランペット3台とフルートがあることを連絡したら、チューニングしてから送るとのことで、大学のクラブに送ってくれとのこと。
  主人は生前学生さんにでも使っていただけたらいいなあと言っていたので、何気無く見落とすところを主人のテレパシーが私にピーってきたと思い、梱包して送りました。
  ちゃんとうまく使えているのかなとは思ってはいたのですが、今年の1月に入ってから宮城県の中学生さんのお一人から自筆でお礼状が届きました。
  やはりお手紙はうれしいものです。
  今は私なんでも貯めておかず有意義に使えるものがあれば、少しづつ片付けていくよう努力しようと思う今日この頃です。


思い出 (平24. 1. 24  M. M さん 投稿)

  野外活動で思い出すことは、今31歳のカナダ在住の娘が幼稚園の時から小学3年まで不登校、まだあの頃の学校は引きずってでも学校に連れてきなさいみたいなところがあり、幼稚園の頃はそれでも何とかなったのですが、3年生になってからはこんなことをしていたら親子関係が、イヤ私がおかしくなりました。

  そんなときに、今亡き主人は、子供のおむつも替えたことのない人が、仕事先で今は普通になった心療内科、私はそういう科があることも知りませんでしたが、心療内科のある病院を探してくれて、娘と私が受診、また主人も一日は仕事を休んで一緒に診察に付き合ってくれました。

  そのころは、家族関係が気薄になっているから楽しく向き合えることをしてはいかがですか? 家族4人でファミリーキャンプに参加したり、近所の同学年の5家族とで1泊の野外活動センターでの活動を企画して楽しんでもみました。

  今思うと、私は二人の娘の母親ですが子供達の気持ちが何も分からなかったことと子供はどんな時も親である私をいつも見ていて私の愛情を試していたのではないでしょうか?

  そんな娘が語学研修でオーストラリア1年、2年ほど日本に、何を思ったのかカナダへ美容研修、現地で彼氏を見つけ7年、二人の娘はそれぞれにしっかりと地に足をつけて前向いて歩いているようです。

  私は一念発起して英会話に挑戦、少し老いとの戦いに挑んでいます。



ホスピスで主人を送って (平23. 12.15  M. K さん 投稿)

  癌と診断されてから、良いと云われる治療は全て受けようと、方々に行きました。  最終が、亡くなる二十日程前の東京の日赤での受診でした。

  いつも出掛ける一週間前には全ての荷物が揃えられていましたが、この時は私が用意し、リュックサックを背負って行きました。

  いちるの望みを抱いて行きましたが、一言のもとに終末を宣告され、二人共、以前から主人がインターネットで調べていたホスピス(飛鳥)に入る決断をして帰りました。

  帰りの新幹線から冬空に映える美しい富士山が見えましたが、主人は見る元気も無く、下を向いたままでした。

  ホスピスにお世話になりました日は、奈良地方では珍しい大雪の降った朝で、四方の山々は真っ白に雪化粧をしていました。

  郷里、信州での我々の結婚式当日も大雪の後でしたので、運命のいたずらを感じました。

  山々が真っ白だよ、と話しかけても、それを見る余裕も無く、ベッド付きタクシーに横たわっているのみでした。

  ホスピスに到着して直ぐに受けた注射で健康時の顔に戻り、食欲も出てきたのを娘が見て、後二週間と云う診断は誤診ではないか、ずっと付いているのも大変だろうからいつでも代わるよ、と云ってくれましたが、それは一時のはかない望みに終わり、娘の望みもあえなく消えて、先生の診断通りに二週間で亡くなりました。

  ホスピスに入院した次の日は、娘家族全員が集まりました。

  主人が孫一人ひとりに進学等を指示し、婿二人には後々の事を頼み、こんな話が出来て幸せだったと云い、ほっと安心していました。

  ホスピスの生活は検温も無く、自分達のリズムで生活出来、先生を始めスタッフの方々が終末医療を良く勉強されていて、患者本人は云うに及ばず、家族も現実に迫りくる別れを心静かに受け入れられる様な雰囲気で接して下さり、穏やかに送る事が出来ました。

  終末が穏やかであれば、後の生活も大変穏やかになる、と日野原先生がおっしゃる通り、楽しかった事等々、皆で折にふれて思い出話しが出来ます。

  また私に自分の好きな事が出来る充分な時間を残してくれました。

  感謝しながら楽しんでいます。

  世間では終末をどうするか、との話題が度々取り上げていますが、主人の場合にはホスピスに自分から進んで入ってくれ、本人も穏やかな終末を送る事が出来て良かったでしょうし、家族もゆったりとした最後の時間を持てた事が大変有難かったと思います。

  この様な体験を一人でも多くの人が出来ると良いなと思いますし、私もそうなったらお世話になりたいと思っています。


息子の嫁に感謝! 息子に感謝! ディズニーランド職員の皆さんに感謝!
(平23. 11. 13  T. O さん 投稿)

  Dr.Toshのホスピス通信・第11回(平成23年11月1日)を読ませていただきました。

  ディズニーランドで実際にあった素晴らしいお話で感動しました。
  私の話は同じディズニーランドで体験しました感謝の出来事です。
  2010年12月31日、私にとっては初めてのディズニーランドへの旅でした。
  息子夫婦、孫、私の4人の旅になりました。
  いわゆる『カウント・ダウン』なるものを息子夫婦が私に体験させる考えのようでした。
  出発前のある日、我が家に息子たちが来ました時に、息子の嫁が『お父さん折りたたみの椅子を持って行きましようね』と言いました。
  私は小さな折りたたみの椅子を持って行くことにしました。
  私は右脚が小学生の頃から不自由です。歩き疲れた時に座って休憩する時にでも使ったら良いなと思っていました。
  31日の夜、ディズニーランドの会場に多くの人達と一緒に入って、はじめて「椅子」持参の目的がわかりました。
  殆んどの人たちがパレード・ストリート沿いの地面に各々持参の敷物に座り或いは横になっておられました。どうも椅子等は駄目の様です。
  「これは大変な事になった、地面に座って長時間大丈夫かな」と思っていましたら、息子と嫁が、整理係の女性職員の方と話しをしていました。
  しばらくしてその女性職員の方が「こちらへどうぞ」と言って、ある場所へ案内して下さいました。
  その場所は車椅子の方専用のコーナーでした。
  その一角はロープだけで仕切られていました。
  私たちは女性職員の方にお礼を言い、私は持参の椅子に落ち着かせてもらいました。
  当然他の方たちも、何組もロープの中に入ろうとし、入って来られるのですが、その女性職員の方が間断なく巡回に来られて、それらの方々を見かけるとすぐさま「ロープの中に入らないでください」とはっきり言われて出てもらっていました。
  私たちはその場所で、素晴らしいディズニーランドの夜のパレードを満喫させてもらい、私にとっては初めての「カウント・ダウン」を体験しました。
  その時私は、ディズニーランドの職員の方たちは確固たる、何かあるものを持っておられると知り、また優しい思いやりに感謝していました。
  もちろん、息子たちにも感謝していました。
  此のたびDr.Toshのホスピス通信を読ませていただきディズニーランドの、職員の方たちへの、私が体験した事が徹底した教育や温かい思いやりの一つであつたのかと思い、改めて感謝、感謝です。
  かの、女性職員の天使に守られていたかのようです。有難うございました。



悲しみは美しく しなやかに耐える (平23. 6. 25  C. Y さん 投稿)

  平成20年、新緑が鮮やかな春の頃に主人の病気が判明し、もうその年の寒い冬の日に主人は私達家族の元から旅立ってしまいました。

 先日、友人と東京旅行に行った折に、新婚時代に遊びに出かけた横浜にも寄ってまいりました。
  横浜港を一望できる山下公園のベンチも当時のまま……

  どうして私を残して逝ってしまったの?
  どうしてそんなに生き忙いでこの世を去ってしまったの?
  生きていれば楽しいことがまだまだ一杯あったのに……

と、それはそれは色んなことを頭の中で主人に語りかけていました。

  二人で家庭を築きあげてきたのも事実、今こうして一人になったのも現実です。
  しっかり現実を受け止めているつもりでも、時々、悲しみや淋しさがこみ上げてくるときがあります。
  そんなとき、私は「悲しみは美しく しなやかなに耐える」という言葉で自分を励まします。
  失ったものは私にとりましては最大のものでしたが、家族にささえられ、たくさんの友人や知人にささえていただき、そして同じ経験をされました皆様と交流させていただくことによりまして、心が癒され、こうして元気に生かされていることに感謝して、日々を過ごしております。



少しづつ前へ… (平23. 5. 13  K. I さん 投稿)

  先日飛鳥だよりや皆様のお話をお聞きして、同じ悲しみを持つ人が1歩ずつ前へ向かわれている様子に、羨ましく思っておりました。
  私は、朝晩主人の写真と話をしておりますが、いつもマイナスの話ばかりで主人も心配していると思います。
  でも、このメールを書き出してやっと少しずつでも前へ進んで行こうと思える様になりました。不思議ですね。皆様のおかげです。ありがとうございました。
  あすか広場に『悲しみは同じ境遇の人と出会い、語り合うことで緩和される』と言う言葉が掲載されていましたが、その通りですね。
  秋のハイキングを楽しみにしております。



最近思うこと (平23. 4. 10  T. T さん 投稿)

  東北関東地震で被害を受けた方々の心情を思うと心が痛みます。
  亡くなられた方々にはお悔やみ申し上げます。
  被災者の方々の中には、住む処も失くし、思い出の数々も失い、仕事も収入も失い、つい今まで共に過ごしていた家族が突然いなくなる。
  とても私の想像の及ぶところではありません。私としては、自分が今出来ることを、やっっていくしかないのだと思います。
  山の中の暮らしを、二人でやろうと決めて移り住んだ田舎暮らし。嬉々と2人で過ごした古民家も、独り暮らしでは寂しいものです。
  自宅の近くに土葬で埋葬されている墓へ犬の散歩がてらよくお参りします。
  墓といっても木の墓標があるだけ。寂しいので棺の上の周辺は、お花をいっぱい植えています。
  そんなお墓通い続けて、約2年経ちました。
  気持ちが少し落ち着いたかなと思うと、また揺れ戻される時もあります。
  二人の間には子供がいないので、「妻がいないという寂しさ」と、「一人であるという寂しさ」と揺れ動いているのです。
  丸一年過ぎた時、ひととおりの季節を経験したので、これから少し楽になるかなと思っていたのですが、これからは、「一人でどうやって生きていくのか、どうやって独りで死んでいくのか。」というトピックが大きくなってきています。
  妻が、私より先に逝ってしまったのは、その逆よりは良かったと思うようになりました。
  妻一人が先に逝ったから、私のようにこんな辛い目に合わずにすんだと思うし、一人田舎暮らしを続けていくのは車が運転できない妻にとっては大変なことになっていたと思います。
  残されたものの悲しみは、私が引き受けることで良かったのだと、腑に落ちました。
  配偶者を亡くした遺族は、とことん悲しみつくし、底の底まで落ちなければちゃんと這い上がれないと思います。
  でも日常の細事におわれて気がまぎれ、元気そうに見えますが、悲しみ尽くせていないのが実感です。
  周囲の人々が気を遣って、「どうや?」とか「元気だしてね」と言わんばかりの言葉は、なんの足しにもなりません。
  むしろ、「分かってもらえていない」、と腹だたしいもあります。これからは、そう言われた時「どう見える?」と聞き返そうと思っています。
  そして、私がもっともっと悲しみつくすために、妻の遺品に手をつけました。
  自分の持ち物の整理と共に、妻の遺品を約9割処分しました。
  ものすごい量でした。おかげで家の中はガラガラになっています。
  その過程で、どんどんといろんな思いが湧きあがってきて、結構辛い辛いものがありました。
  まだどうしても処分したくないものも1割ぐらい残しています。
  最後の未練ですね。おそらく仕舞いっ放しでしょうが、またいずれ、です。
  その遺品整理のおかげ、いままで見つからなかったものや、たくさんの手紙のやり取りが出てきました。
  そのたびに時間をとられ、思い出したり、沈み込んだりです。
  忘れていたエピソードもたくさんありました。私が憶えている事と、彼女が覚えていた思い出は、重複もしていますが結構食い違っているものも有りました。
  そのくい違いに思いを懸け、思いがけず掘り返した彩られた記憶に、再度沈み込みます。
  思い出は一生無くなりませんが、それに彩られた感情はやがてもっと落ち着いてくるかもしれません。
  今はまだ、その余韻を辛さも含めて楽しんでおります。
  先日、面白い夢を見ました。

その1 
  東北の震災で、橋の欄干にもたれて死んでいた男性が、わたしに『今はこんな姿になっていしまっているけど、私の魂は、クラウドコンピューティングで雲の上にセーブされている』というのです。なる程と思いそこで、そばにいた妻に「じゃあ、お前の魂もそこにセーブされているのか?」と聞くと「そうだ。」という。「でもね、誰もそれをダウンロードする方法を知らないの。」

その2 
  東北地震の影響で、三途の川にも津波が襲ってきた。そのせいで、多くの亡者が犠牲になり亡くなったと。つまり、亡者が死んだということは、生き返るということかと思い。そこで、妻に「おまえも、生き返ってくるのか?」と聞くと「、、、、、、、、、、?????。」


  夢の解釈云々は別にして、結構おもしろい発想だなあと思っています。
  妻は天国にセーブされている、でもダウンロード出来ない。
  出来るとすれば降霊者ぐらいのものかもしれません。
  昨年、青森の恐山を訪ねイタコさんに会ってきました。シーズンでもないのにたくさんの人々が全国から来ていました。イタコさんがおこなった妻のダウンロードでのやり取りは、真偽の程は別にして、私なりには、思い感じるところがありました。何年前に誰を何で亡くしたのか。という情報を伝えるだけで、私がどういう気持ちで訪ねてきたのかを理解し、的確に話題をを絞って話してくれます。20年前に祖母を亡くしたという孫に言うことは、答えることはずいぶん違うはずです。私は、イタコさんの言うこと、つまり妻の言っている事に、(これが東北弁で聞き取りにくいところもあったのです。こっそりとボイスレコーダーで録音していたのを後で何度も聞きなおしてみました。)真剣に聞きいる事が出来て、「そうなんや。」「そうかもしれんな。」あらためて納得もしました。その中で彼女が言う言葉の中に「今日は遠いとこまで来てくれてありがとう。我が不幸か、お前の不幸かこうなってしまったのは、本当に残念なことだけど、仕方のないことだと思ってくれ。」というのがありました。こんなことを言ってくれる人は日常の中ではいないのです。ほんとうに「仕方のなかったこと」だと、あらためて受けとめる機会になりました。


冬は必ず春となる (平23. 3. 28  S. M さん 投稿)

  先日の飛鳥の会、第二回総会に参加させていただき、役員の皆様の発足からの御苦労、御尽力にあらためて感謝申し上げます。
  私は夫を平成18年7月7日、七夕の日、まさにホールで七夕祭が開催される直前に急変し、59年の命をとじました。
  前夜には短冊に書かれた「健康長寿」は、「入院されている患者さん、御家族の想いを込めて太く力強く書くんや」といっての生命を燃焼するかの如くの文字も、今我が家の遺影と共に額に飾っております。
  本日3月28日は、生きていれば64歳の誕生日です。亡くなる年のその誕生日、一時退院して御近所の友人夫妻と私共夫婦で楽しくお酒を飲み交わし、将来のことを語っていたのが、ついこの前の様に思われます。
  先日八重桜の盆栽を見つけました。その時はつぼみの桜も二輪、三輪と花開き、今主人の写真の前で三分咲き位になって華やかさをみせてくれています。
  実は主人の部屋には「さくら」の部屋で過ごした42日間はまさに「桜談義」をしている様な楽しい日々でした。
  病棟にいている時より有意義で一日一日、一分一秒が主人の生き様でした。
  大好きな絵を書いたり、看護師さんの似顔絵を描いたり、今生きている事に感謝する言葉にこちらが励まされたりと、死を告知された本人とは思えない程前向きに語っていた主人でした。
  その一言一言に「負けるな、頑張って生きてくれ!!」と私達に残してくれたんだと思います。
  今年は「3.11.東日本大震災」という予想をはるかに上回る惨事を目の当たりにして、いいようのない深い悲しみ、苦しみに耐えながらも必死に生きておられる方々に、今私は何をしてあげられるのかと、主人に問いかけながら日々街角でコンビニでの義援金に心を込めて「負けるな東北、頑張れ日本!」の思いで入れています。
  必ず東日本にも再び素晴らしい春四月、桜満開の季節の訪れる事を信じて、我が家の桜の盆栽を大事に育てて参ります。

         「冬は必ず春となる」を信じて………



「飛鳥の会」 遺族会 によせて (平23. 3. 27  T. I さん 投稿)

  伴侶が緩和ケアホーム「飛鳥」で平成20年2月24日までお世話になってから、3年が経過しました。
  先生方をはじめ看護師の皆様のお蔭で、短い間でしたが最後の時間を穏やかに過ごさしていただきました。
  彼女を見送った後、今振り返ってみると寂しいというより、運命とはいえなぜ彼女がこの世を去らねばならなかったのか、どうしてこの病を治してやることができなかったのか、もっと早く気付いてやれば何か方法があったのではないかなど、彼女が可哀そう、自分だけ残って申訳ないという気持ちで悶々としていました。
  「男性は精神的に脆く、女性に先立たれるとダメになるケースが多いので、あなたもしっかりしなくてはいけませんよ。」と言われて、多くのアドバイスをいただきました。今でも家の中で一人食事などしていると、彼女が元気だったころのことなどを思いだして、気持ちが落ち込むことはありますが、何とか元気にやっております。
  いただいた多くのアドバイス・言葉のなかから、深く心に残っていることを二三紹介します。

  1、彼女の卒業した学校は仏教系の学校でした。学校関係者や在校生たちが列席して、学校関係物故者追悼法要が営まれ、参列させていただきました。そのなかで、在校生たちの歌ってくれた追悼歌のなかに、次のような言葉がありました。(部分抜粋)

   みほとけに 抱かれて  君ゆきぬ 西の岸  

   なつかしき おもかげも きえはてし 悲しさよ。

   みほとけに 抱かれて  君ゆきぬ 花の里

   つきせざる たのしみに 笑みたもう うれしさよ。

   彼岸に旅立ってしまって悲しいが、花の里で安らかに過ごしていることを思うと、気持ちも安らぐことよ。

  2、此岸に残った人が、いつまでも嘆き悲しんでいると、彼岸に渡った人も安らかに過ごすことができないよ

  3、あなたは、しっかり食事を摂って、此岸に居て頑張らなくてはいけません。

  彼女が折角あなたの世話をしなくてもよくなって、ようやく解放されているところへ、急いで邪魔をしに行っては、ダメですよ。(親しい人の励ましの言葉です)

などなどである。

  遺族会の同じ境遇の仲間との語らい、ボランティア活動仲間の助言および朝夕の仏壇に向かっての礼拝、四国八十八ケ寺巡拝などを通して彼岸との繋がりを模索するなかで、彼女が「花の里」で安らかに過ごしつつ私たちを見守ってくれていると、自分自身を納得させているところです。



毎日元気です (平22. 7. 10 M. M さん 投稿)
  主人が64歳で亡くなってから2年半、この春また主人と同じ時期に愛犬も亡くなり、本当の独り暮らしになりました。
  今までは、だれかが待っていてくれる、待っている、と思うだけで帰る意味があると思っていたのに、それすらもなくなり、どんな物もいつかは亡くなることはわかってはいるものの、気持ちに切り替えられるまで少し時間がかかりました。
  一人で家にいると頭が痛くなったり、そんな時、ある友達と少し話をしてるうちに近所のフィトネスを風呂屋感覚で行っていると言われ、気が向けば自由参加のプログラムもあり、ジッとしているより毎日そこに行く、体を使うことが悶々としないことになります。
  そう自分に言い聞かせ、体を疲れさせることで夜も眠れるようになりました。
  どんなものも無理に背伸びはしないということ、ありのままな自分で居ようすることで気が楽になりました。
  今はスケジュールいっぱいにして、元気に毎日を過ごしております。



『がん』さん いらっしゃい  (平22. 7. 10 T. O さん 投稿)

あなたは私の大切な人を次々と連れ去っていきました。
父と母を そして飽きたらずに兄と妹までも連れ去っていきました。
さらに姉にまでも襲いかかっていますね。
さらに さらに許せないのは私の愛しい妻までも連れ去ってしまいました。
しかし 私は恐れていません。怖くはありません。
妻が教えてくれました。
「強い味方がいるからね」と。
その名は "緩和ケアホーム「飛鳥」"
「飛鳥」で 温かく 優しいスタッフの方たちに囲まれて過ごせば
あなたも少しは やさしくなるのではないでしょうか。
『がん』さん いつでも いらっしゃい。


飛鳥の会への願い (平22. 7. 10 J. H さん 投稿)
  平成19年11月、一番手放したくないもの、妻をなくしてしまいました。あちこちさがしてみましたが、見つかりません。異次元の世界に旅立ってしまったのです。
  悲しみは深く、落ち込んでしまいました。そんなとき、ケアホーム『飛鳥』で亡くなった方の遺族に出合い、お話をしました。
  悲しみを分かち合い、元気が出ました。悲しみは同じ境遇の人と出会い、語り合うことで緩和されることを知りました。
  この経験から、知り合った遺族数名と、遺族のみなさんが気楽に親睦できる遺族会『飛鳥の会』を立ち上げました。
  最愛の家族を亡くした悲しみは消えることはありませんが、『飛鳥の会』に参加してもらうことで、ほんの少しでも元気がでれば、と願っています。

  人 死を憎まば生を愛すべし 存命の喜び 日々に楽しまざらんや(徒然草)