飛鳥の会               

飛鳥だより 第1号〜第26号

飛鳥だより 第27号〜


みなさんからの体験談を募集しております。

内容は体験談にこだわりません。自分自身のこと、思っていること、みなさんに伝えたいこと等、どのような内容でも結構です。散文、詩、短歌、川柳等、形式も自由です。


体験談は、当会の連絡先にお送りください。当会のスタッフに直接お渡しいただいても結構です。

体験談 No.2


五十年の宝物 (平27.12.5 Oさん投稿)

  主人は平成十七年五月に脳梗塞をわずらいまして半身不随になり車イス生活でした。  平成二三年一月に末期がんと宣告されました。  秋はないです、といわれ、頭が真っ白になりました。
  (主人は)自分の最期の場所にケアホーム飛鳥を選びました。
  辛い検査にも耐え、愚痴ひとつ言わず泣き言もいわずに我慢強い人でしたが、心の中では本当に残念で悔しかったと思います。
  きっと死にたくなかったと思います。
  平成二三年八月十五日から九月二九日までケアホーム飛鳥でお世話になりました。
  入院中はいつも笑顔で接して頂いた先生方や看護師さんに感謝しながら逝きました。
  私は主人の前では涙をみせずに笑顔でいましたが、とても辛かったです。  そして一月に、何時もありがとう、と感謝の言葉をかけてくれましたね。  毎日主人は日記を書いていました。  亡くなる三月前に、か細い声で、お母ちゃん、僕がいなくなったら必ず日記を読んでね、と言ってましたので、亡くなりましてから、しばらくしまして、日記を読みました。
  僕のことを忘れないで、と赤いペンでぎっしりと書いてあり、私には長年の介護の世話になったことへの感謝の言葉がたくさん書いてありました。  私こそ、介護させていただいたと、今では感謝の気持ちでいっぱいです。  そして、私と一緒に過ごしてよかった、と本当に幸せな人生だった、と書いてありました。
  結婚五十年目でした。  二人の子供達にもお礼の言葉がたくさん書いてあり、お母ちゃんを頼む、これからも家族仲良く暮らしてほしい、と最後に大きくメッセージが書いてありました。
  主人の最期は娘と息子と三人で見送ることができ、主人は最後の力をふりしぼり、目を開けてくれました。  そして大きな息をしまして苦しむこともなく、大往生でした。  平成二三年九月二九日午後一時五二分、この世を去りました。
  家族を愛し、仕事一筋まじめで男らしく、本当に心優しいあったかい尊敬する立派な夫であったことを、私の誇りに思っています。


あなたへ (平27.7.4 Hさん投稿)
  
  あなたが、一歳半までしか見られなかった初孫が、今春、小学校へ入学しました。 そしてあなたの死後、生まれ変わりのように誕生した二番目の孫が幼稚園に入園したのです。

  そして私は、亡くなったあなたと同じ年齢になりました。 六〇才になり、とても複雑な思いです。 あなたより長生きする事が何か申し訳なくて、そう思うと、まだまだこれからだったのに、と無念の思いがまた込み上げてきます。 本当に残念です。

  退職したら、二人で新婚旅行に行った所をまた旅行しようね、と言っていたのに、叶えられませんでしたね。 五八歳で病気が分かり、その後は辛い闘病生活でした。

  でも必ず治ると信じて、何度もあきらめずに抗癌剤治療に挑戦し、その精神的強さには感服しました。

  闘病中、自分のことで精一杯だったのに、自分の余命を悟ると、今度は私のことを心配して、色々考えてくれましたね。 もう歩けなくなって、ベッドの上でパソコンをさわっていたあなたの姿が今でも思い出されます。
  今もあなたが愛用したパソコンには、私や子供たちへの遺書のようなメッセージが入っていて、時々読んでは、いつも胸を熱くしております。
  自分のことより、家族のことを一番に考えてくれて、本当にありがとう。
  今、私は一人暮らしですが、子供や孫がいてくれるおかげで、幸せを感じることもでき、これもあなたと結婚したおかげと感謝の思いになります。
  天国で待っていて下さい。 いつか私も行きますので、その時は存分に話をしましょうね。
  今は、健康に気をつけて、一人で頑張っていきたいと思います。 

(※本文は5周年記念誌に掲載用として投稿されたものですが、投稿のメール送受信トラブルにより記念誌に掲載できませんでした。Hさん、ごめんなさい。)



なんでも体験  !! (平26.9.5 M-1さん投稿)
  
  年を重ねることは不都合なところが出てくるものです。
  今まで痛みがないので、ほっておいたのですが、ピースボートに乗るにあたって、子宮らしきものが顔を出していたから、105日の間に何かの都合で傷つくことがあれば、折角、私にとってはなけなしの金を費やして、払った費用がフィになっては目も当てられないから、ピースボート (H26.3.21 M-1さん投稿 参照) が決まった時点で、婦人科に相談をしに行ったのです。
  リングという方法があるとのことで、毎月洗浄には行かねばならないのですが、様子を見ることにしてみたのです。
  ピースボートの期間中は洗浄はできず、色々と違和感を感じながらも、無事に帰ってきたので、このままの状態でいても下がるばかり、取ることにしようと思って、病院を紹介してもらったのが、3月半ば、申し込みをそれがお盆明けが一番早い手術とのことでした。  お産以外で入院することがなかったので、これも冥土の土産のつもりで、初体験をしてもいいかも、また、事前検査のおかげか??なにか判らないけど、不整脈発見!今まで気にせず、ハイキング等の坂道は異常に辛かったことが思いだして、ちょっと納得できたことはよかったです。  この年でなにも急ぐことがないので、私に病人の辛さを体験することもいいのかもと、天からのお諭しくださっていると思って、あわてず、少し、時間をかけて養生したいと思っています。



ケアホーム七夕に思う=亡き夫の忘れ物 !! (平26.7.10 M-2さん投稿)
  
  笹の葉サラサラ のきばにゆれる お星さまキラキラ 金銀砂子 五しきのたんざく わたしがかいた お星さまキラキラ 空からみてる


  8年前、平成18年7月7日、夫は天の川のお星さまになりました。
  夫は、その前夜、病室(緩和ケア飛鳥)のベッドの上で 「健康長寿」 を太くて力強い字で、もう一枚 「癌が壊死するよう、体が動きますよう」 短冊を書きました。 入院されている皆さんの願いであり、祈りだから…どうだ、これで大丈夫か、みんな元気になるかなぁ…と。
  翌7月7日、ホールでの七夕祭、笹の葉に一番につけるんだ、と意気込み準備していたのに…。 その直前、突然の喀血で千の風にのって先に天の川の流れにとけこんで逝ってしまいました。
  主人の思いの2枚の短冊は笹の葉にかけることなく…。 主人を見送るとき、祭壇の前にはかかげましたが…。
  それから四十九日忌法要、一周忌、三回忌、七回忌という儀式を乗り越えてきた今、改めて主人の忘れてきた2枚の短冊を、先日7月7日七夕の日、ケアホーム飛鳥に行き、事情を説明して、一番にホールの笹の葉につけさせていただきました。 前日7月6日の飛鳥の会での四宮先生の講演「家族・遺族ケア」は本当に具体例の話も「ウン、そうだ」「そんなこともあった」と実感することばかりで、時には胸をしめつけられ、涙しました。 講演で、四宮先生も義父(奥様のお父様)の病と自ら向き合われていたことをうかがい、私達と同じ辛さや苦しみがあったのに緩和ケアに全力で取りくんで下さっていることに感動と感謝をいたしております。
  亡き夫の当時の情況から、悲しみや苦しさ、淋しさから、少しづつ前に進んでいる私に拍手を送ってくれている主人がいることを信じたいと思います。 主人は「生も歓喜 !! 死も歓喜だ !!」と、死の間際まで明るく、楽しく、力強く生き抜きました。
 今生きている私達は、この大切な生命を輝かせていく使命があると思います。
 私も亡き夫に誓います、生きるための挑戦をすることを。 そして我が生きた証(あかし)の中に「忘れ物」のないよう、七夕の夜空の星に語りかけ、誓った一日でした。

主人の書いた2枚の短冊



ケアホーム飛鳥での思い出 (平26年3〜7月返信葉書での投稿)
  
  飛鳥は哀しい場所で有り、懐かしい場所でも有ります。(Sさん)

  忘れもしない平成10年12月24日のクリスマスイブから翌平成11年2月6日まで、飛鳥のスタッフの皆様方にはお世話になりました。 奈良はこういう福祉は未だ遅れていると思います。 私達はその面で恵まれていたと思います。 今でも娘H子が「お父さん、お母さん息してないのとちがう」と。 娘M代が眠るように旅立ったのが僕の心の中に焼きついています。只ただ感謝の気持ちです。亡くなった当日の夕方、苦痛なく(本人は辛かったと思う)会話をし永遠の眠りにつきました。ありがとうございました。(Uさん)

  もう三年前のこととなりましたが、今でも当時のことが思い出されます。 絶望的になりながらも、懸命に病と闘い続けた主人の最後の生きざまを思いながら、これで良かったのかと、今も後悔することがありますが、病院の先生と看護師さん方のおかげさまと感謝いっぱいです。(Hさん)

  母が看取られて三年が経ちます。 今思いますが、半年程色々とご迷惑もかけ、大変な世話もいただき、その当時、徳岡先生に母のことについて意見も聞いてもらったりして、最後は私も飛鳥にと思ったりしています。(Sさん)

  娘がホスピス開設されたとき、一番に入所させてもらい(5月9日)最年少で9月15日死、最長ではないでしょうか。(Nさん)

  私の古里に故主人を連れて帰り、十分にお世話できたこと、人生において一番の想い出です。 皆様と家族ぐるみで過ごさせていただいた5ヶ月間、私は泊りがけしたので一生の想い出です。 一日たりとも先生始めスタッフの皆様のことは忘れておりません。 飛鳥の会で皆様とお会いできるのを楽しみにしております。(Kさん)

  社会との繋がりを持つため平城宮跡や法隆寺で来場者を案内するボランティア活動しています。 活動日や関連する勉強会などに出席する日と重なり、行事を欠席することが多いですが、容赦下さい。(Iさん)

  ホスピスに主人が平成23年7月に先生、看護師さん方にお世話になって天国に行きました。 色々と苦しさもなにも落ち着いて主人は天国に行ったと思います。私は後片付けを2年かかって始末して、なんとなく気持が淋しい気がしています。(Sさん)

  ホスピスでお世話になったのは10日間という短期間でしたが、ピアサポーターの研修で、この施設を知っていましたので、主人は入所をずっと希望していました。 余分な管も外していただき楽になった主人は1階のガ−デンにベッドごと連れ出していただいたときはとても満足そうでした。 小春日和の青空を背景に紅い柿の実が二つ。 彼がこの世で最期に見たこの景色、私も決して忘れることはありません。(Fさん)

  久しぶりに病室を見て涙がでました。(Yさん)

飛鳥でお世話になった日々、2週間足らずでしたが、妻はいつも笑顔で接していただいた先生や看護師さんに感謝しながら、笑顔で逝きました。 最期を飛鳥で迎えたことが私にとって唯一の救いでした。(Hさん)

  妻が去ってもう5年が過ぎましたが、遺品の整理も遅々として進まず、未だ後悔の念が残ります。 でも、ケアホーム飛鳥での生活に妻は満足していました。飛鳥でお世話になって本当に良かった。(Tさん)

  主人と一緒に見た田園風景。飛鳥に来る度に思い出します。痛みが和らぎ、食事もできるようになり、ひょっとすると…と思いましたが、やはり天命でした。 田園風景は主人亡き後も残り、私の心を癒してくれます。(Iさん)

  飛鳥の会で久しぶりに先生方にお会いしました。やさしく声をかけてくださいました。 思わず涙がでました。まだまだ貴女とは縁が切れないねぇ。(Mさん)

  飛鳥の会に始めて出席しました。 家族を亡くした悲しみはみんな同じでした。2階の病室に向かうご家族を見て、思わず病室に向かいかけました。 もう夫はいないのに…。(Nさん)

  車から病室が見えました。 人影が見えました。 主人と暮らした部屋です。 主人が亡くなってからも何度も見ています。 いつ見ても、哀しくて懐かしい光景です。(Eさん)

 一般病院では裏口からひっそりと出棺されますが、母の遺体はケアホームの玄関から出棺されました。 先生や看護師さん達に全員でお見送りしていただきました。 にぎやかなことが好きだった母は棺の中で手をたたいて喜んでいたことでしょう。 先生、看護師さん、本当にお世話になりました。 ありがとうございました。(Sさん)

  ホスピス紹介のパンフレットを作成して下さる由、嬉しく思います。 ホスピス選択を否定される方の一方で、ホスピスの実情を知りたいと思う方も多いはずです。
夫と共に病気と向き合う長い日々の末に、ためらうことなく飛鳥にお世話になりました。 スタッフの皆様の優しいお気持ちに接し、私共の抱えてきた心の重荷を軽くしていただきました。 もう一度自宅に戻れるのでは、と思える程穏やかな日の後、旅立ちましたこと…幸せでございました。(Iさん)

  患者と一日中一緒に過ごすことができました。 本当によかったと思っています。(Yさん)

  主人が亡くなって2年9ヶ月過ぎ、少しづつ淋しさもうすらいでまいりました。 お墓参りをすると、主人と頑張った事を思い出し、涙したりしています。 特に飛鳥での病院生活は短いものでしたが、主人が喜んでくれた事を思い出します。(Sさん)

  マッサージチェアには本当にお世話になりました。 「1回分」はあっという間に終わってしまい、いつも物足りなく感じました。(Oさん)


桜の盆栽を遺影に飾って… (平26. 3. 29  M-2さん 投稿)
  今日(平成26年3月29日)飛鳥の会の親睦会に参加しました。
  昨日は、主人の誕生日。  生きていたら67才の誕生日を迎えていたはずでした。
  緩和ケアホーム飛鳥でさくら (桜)の部屋に入院しておりましたので、毎年この時期の桜の盆栽を買って遺影に飾ります。
  亡くなって7年半になりますが、やはりこの時期の桜はちょっぴり寂しく感じます。




がんばって、いきましょう (平26. 3. 29  Oさん 投稿)
  一昨年(平成24年)の11月18日、日曜日の早朝。
  救急車のサイレンの音が団地の坂道をゆっくりと登ってくる。
  その前日つまり土曜日の夕方あたりから、身体にかなり深刻な不愉快な何とも言えない気配が感じられた。
  首筋が突っ張って、右へも左へも回らなくなってきた。
  そして気分が悪い。そのうち手、脚も上手く動かせなくなってきた。
  これは大変な事になって来るのではないだろうか。
  直ぐに何とかしなければ、いやいや月曜日になれば定期的に病院に予約をとってあるから診てもらったら良いだろう。
  しかし時間が経つほどに状態は悪くなってきた。
  助けをお願いしようか。どうすればいいのか。夜になってしまった。
  今はどうにもならない、明日まで我慢できれば何とかなるかも。
  しかし今出来る事をしておかなければ、全く動かなくなればどう仕様もない。
  助けをお願いしても入って来てもらえないのでは、それでは玄関の鍵を開けておかなければ。 非常時だから良いだろう。
  その時には何時、何所へ、どの様にして、お願いするのかは決めていた。
  幸いにして、目と口と指先はその時も翌朝もうごかせた。
  そしていよいよ日曜日、朝6時になった。まだ早すぎる。もう少し待とう。
  8時になった。 Kさんにメールをする。 助けて下さい。 Kさんから直ぐに行くからとメールの返事、これで助かった、感謝・感謝・・・・。
  『・・・くらぶ』の連絡のために、メールアドレスを聞かせて貰っていてよかったと二重の感謝。
  KさんはYさんと直ぐに来て下さいました。 そして救急車の手配。
  生まれて初めて救急車に乗せられた。 血圧は200をはるかに超えていたのだろう。
  血圧は何時も高いのですか。 いいえ高くないと思います。 救急車の中での会話。
  搬送は何所になるのか。 月曜日にかかりつけのK病院の予約がしてあるのでお願いします。
  身体は自由にうごかせなくても、口は動かせるので希望を言う。
  しかしK病院の当直医は眼科医なので駄目。 かなりの時間をかけて、方々へ交渉してもらった結果、近くのH病院への搬送がきまった。
  直ぐに到着した。 当直医が内科の先生で、容態・採血の結果から2時間の点滴をしますとの事。 しかし血圧は依然として高いそうだ。
  時間が過ぎ、翌日のK病院への予約の話しを聞いてもらった結果、体調もかなり良くなってきたように見受けられるので帰宅しても大丈夫だとの診断。血圧も落ち着いてきたようだ。
  翌11月19日の月曜日、K病院で前日までの経過を話す。
  根治の見込みのない病名を言い渡される。そして本日から治療を始めると。
  かなりの長期戦になりそうですね。 主治医は首を縦に振る。
  近年では新しい薬が開発されているので根治出来なくても、それに近い状態にまで病状を抑え込む事は可能との話。
  永い病との共存の生活が開始された。
  体調の良い日、悪い日、とんでもなく悪い日。
  とんでもなく悪い日は突然やってくる。 KさんYさんに迷惑をお掛けし、度々助けて頂いた。
  主治医とのコミニュケーションを密にして、治療薬も変えてもらい、服用薬の副作用での別診療もうけながら、7ケ月も経ってしまった。
  治療開始と同時に介護保険の認定の申請をしており、要支援2と認定されていた。
  そして、近くの地域包括センターの方には度々アドバイスをして頂いていた。
  おかげさまで今では、週2日のホームヘルパーさんのお世話にもスムースにお願いできている。
  しかし、よくよく考えてみると、良くなっているのか、悪くなっているのか、わからなくなっている。
  治療当初は歩行するのに杖は必要なく、就寝時にも何の意識もなく自然に寝起きできていたのが、今ではどうか。
  歩行するのに杖(ステッキ)が必要になり、寝起きするのにも気合を入れて慎重にも慎重な動作が要求される。
  病魔と云うものは密かに隙を狙っているのだろうか。 身体中をうごめき回って隙をうかがっているような気がする。
  油断してはいけない。負けてはいけない。
  まもなく暑い夏がやってくる。
  がんばって、いきましょう 


地球一周の旅で (平26. 3. 21  M-1さん 投稿)
  以前、20年も前に、主人と話していた船の旅に、3カ月半に及ぶ地球一周の旅を終えてきました。
  南半球の17寄港地を巡るものです。 暑いところばかりと思っていたのですが意外と肌寒いところが多かったです。
  初めの一カ月は毎日船の揺れに悩まされつつ、いつになったら揺れが治まるかと思い、それでも朝から晩まで船内新聞のタイムテーブルをみて参加できるものを蛍光ペンで印をつける。 それをこなすことで船酔いも忘れ、意外と忙しいです。
  豪華客船ではないので、ドレスコードはないから自分さえ気にしなかったら、どんな格好でも100%自由です。
  私は初めての参加のため、すごく緊張していたのですが半数近くの方がリピーター。 そのためア〜そうだったのか!!!! がいっぱいありました。
  有名な観光地は少なくマダガスカルのバオバブ並木の夕日奇麗でしたが反面、電気も水道もなく明るく生活して物乞いをする子供たちにどう対処したらいいのか心が痛みました。 ほんとカルチャーショックです。
  イースター島のモアイ像は雄大で、またノラ馬が人口と同じくらいいるのにびっくりです。 日本なら馬刺しにするところですが、食生活の違いで野放しです。 植樹しても苗木は食べられるそうです。 食べられず、成長した木が大きくなって森になるという感じ、ところ変わればいろいろです。
  船内の乗客は日本人ばかりだから船の中は全く気になりませんが、寄港地に出ると、それはそれなりに英語も使って値段交渉している姿をみると私ももっと会話ができたら、どんなに楽しくなることでしょうか!!
  ひとり参加での最高年齢は91歳、80代はザラ、まだまだ私は若い? 又機会を作りたいかな!!! 戻りかたで安心しました。
  ぜひ、今後も続けていただきたいと思います。


短歌 (平25. 3. 26  匿名さん 投稿)
   (1)平成24年9月30日 明日香村ハイキングにて
       雨降れど遺族の集い賑やかに
       辛さのり越え楽しい時間(とき)を
   (2)平成24年12月1日 親睦会にて
       終末を共に過ごせしホスピスの
       思いそれぞれ遺族の集い
   (3)平成25年3月23日 総会にて
       亡き夫(つま)の想い語れる人ありて
       心少しは楽になりたる


Dr.Toshさんへ (平25. 3. 10  Xさん 投稿)
  Dr.Toshさんらしい、戻りかたで安心しました。
  ぜひ、今後も続けていただきたいと思います。
  楽しみにしてますし、励みになりますので・・・。
  「診断時からの緩和ケア」ですが、以前聞いたことあります。
  正直なところ、患者・家族の想いとはすこしズレがあるように思います。

  逆にライフプランみたいな形で、今後の治療プラン・緩和ケアプランや患者・家族のやりたいことこともすべて盛り込んだプランを作成していただいて患者・家族に提示していただくのもひとつの案でしょうか?

  まだまだ緩和ケアの意味が終末期医療と考えておられる方もたくさんおられます、私自身もそうでしたが今は違います。
  そのひとらしい人生を送るために、緩和ケアがあると思ってます。
  ひとそれぞれに考え方がありますので一概には言えませんが・・・。
  世間ではいまも緩和ケアはネガティブなのです。

  Dr.Toshさんは今まで緩和ケアの後半部分(表現がイマイチ?)に熱意を
もって取り組んでこられたのですから、前半部分とトータルにとらえられる
数少ないかたと思います。

  Drのひとことで、患者・家族は救われますよ、またその逆の場合もあります。
私の場合はほとんど逆でしたけど、最期には飛鳥で救われました。
  ご活躍期待してます。

  あっ、たまに徒然日記更新してください。
  仕事中はやめてください(笑)
  以上です
 

Dr.Toshさんへ (平25. 3. 1  Xさん 投稿)
  Dr.Toshさんがいないとさびしくなりますね!!!
  Dr.Toshさん
  良かったら次のことについては忘れないでください。
  でも仕事中は忘れてください(笑) 
  1.たまに飛鳥で出会った、わたしたちのことも思い出してください。
  2.素晴らしいホスピス通信もできれば、どなたかに引継ぎ・・・出来ませんか?
  3・たまに飛鳥の会のイベント等にも参加してください。

  以上ですが、仕事優先ですのでその場合はすべて忘れてください(笑)
  Dr.Toshさんの仕事ぶりは、わたしたちにも充分伝わってます。
  新天地でのご活躍を祈ってます。
  わたしたちのひとりより


看取りのその後・・・ (平25. 2. 7  Xさん 投稿)
  私は3年前に、緩和ケアホーム飛鳥でパートナーを看取りました。
  本当は入院時の体験談を書くのが筋ですが、ここではあえてその後について書かせていただきます。
  これから書くのは、あくまでも私の状況ですのでご了承ください。

1年目
  呆然自失の状況でした。
  次から次へと発生する、対処ごとに追われて日々が過ぎていく状況です。
  ただ感覚(感情と言うべきか)が麻痺しているので、寂しさ・悲しさ・苦しさも当初は出てこなかったように思います。
  四十九日が終わってから、SKK(寂しさ・悲しさ・苦しさの略??)が一気に来たように思います。
  私の場合は、特に夕日を見るのが大変つらかったです。
  もうそれからは、坂をころげ落ちるような感じで常にしんどい状況でした。
  そうなると、何もかもうまくいかない・・・。
  人前では笑顔でも、内面は泣いてました。

2年目
  SKKは相変わらず、継続してます。
  SKKな状況でも、仕事をしないといけない、しんどい状況もかわらず。
  ただ一周忌が終わってから、感情にリトルですが動きがあったように思います。
  そろそろ自分のことに目が向きかけてくる時期でした。
  感情もジェットコースタのようにアップダウンを繰り返して落ち着けない状況でした。

3年目
  SKKも少しは落ち着く時期です。
  ただ今度はいままでの自分を取り戻すのに必死になりすぎて、しんどくなることです。
  でもしかたないと思います。
  それだけSKKな経験をしてきたんだから。

現在
  日常的なSKKや突発なSKKも多少ありますが、そろそろ自分なりの生活を取り戻す時期に差しかかっているのではと思います。
  最近思うことは緩和ケアのことを友達とか知人にお話をしても、結局は他人事です。
  痛感してます。
  最近は話をしてもわかってもらえないので、相手から要望が無い限りしないようにしてます(有益な情報なんですけどね、まぁいいか)。
  やはり人は経験しないと共有してもらえないのですね。
  そう考えると、飛鳥の会のような会は必要だと思います。
  SKKな状況下で唯一コミュニケーションが取れるところなのですから。
  奈良県もリレー・フォー・ライフ的なイベントが出来れば良いと思います。
  開催するだけですこしでも希望をもてる(いろいろな想いがありますね)方が増えます。
  素晴らしいことですね!


飛鳥での思い出 (平25. 2. 4   K さん 投稿)
  今年で、母が亡くなって6年目になり、時間が経つのは、本当に早いものだとつくづく思います。
  4年の闘病生活で、飛鳥では4ヶ月間お世話になりました。 飛鳥で最期を迎えさせたいと思ったのは、母がもう治療法がないと医師から言われ、打ちひしがれて生きる希望を失っていたときに、母とした約束を叶えるためホスピスを選びました。 その約束が、「うち孫とひ孫を必ず見せてあげる。」こと「痛い思いをしないで、最期を迎えさせる」ことでした。 この2つの約束を守れたのは、飛鳥にお世話になったおかげだと思っています。 私自身あまり親孝行をして来なかったので、少しだけですが、私なりの親孝行ができたかなと今は思っています。
  入院をした時は、1週間ぐらいと言われ、でもなんとか「うち孫とひ孫」を見るためにと強い思いで復活をし、しっかり見届けて、2か月後に安らかに亡くなりました。
  飛鳥では、毎日仕事を終え娘を迎えに行き、一緒に晩御飯を食べました。 父が、付添で泊るようになってからは、4人で食事を取るようになり、母の食べたい物を探しては、「美味しい。」と言ってくれることで、自分自身ささやかですが、喜びを感じていました。 いつも帰りに、何が食べたいかを聞いて帰っては、出来るだけ次の日に食べれるように準備をして、持って行っていました。 よくしたのが、「鍋」父も好きだったせいか、よく鍋料理をしました。 簡単で具材や味を変えれば色々な鍋料理になり、次の日は雑炊にして食べられたので、重宝しました。 だんだん食べられなくなってきてからは、やわらい物で甘い物ということで、色々なプリンを毎日買って持って行っていました。 今だにプリンを食べるとよく買って行っては、一緒に食べたなぁと思いながら食べています。 なんだか食べ物の思い出が多いなぁと思いますが、食べられることで、母の命の時間を確かめていたのかもしれません。 それと美味しい物を食べているときの母の顔が少し元気になるんですね。 その顔を見ると1日でも長く生きていてほしいと本当に思いました。 甘い物が大好きだったから、本当はもっと美味しい物を食べさせてあげたかったし、一緒に食べ歩きなどをしたかったなぁと町で同じぐらいの母娘さんを見かけるとふと思ってしまします。 なので、よく美味し物を見つけると1つ多く買って、母の写真にお供えをして、その後は私が美味しく頂いています。